地球の裏側にあるオキナワ
勤めていた会社を辞めてから丸1年が過ぎた2017年8月。私は6年越しの願いを叶えるため、南米ボリビアのサンタ・クルス空港に降り立った。
行き先は、死ぬまでに見たい世界の絶景、”ウユニ塩湖”ではない。
めんそ~れ 地球の裏側にあるオキナワへ
空港からローカルバスを利用しサンタ・クルス市内に出て、そこから目的地に行くバスを探す。日本を出てから9ヶ月もたつとすっかり旅慣れたもので、カタコト以下のスペイン語でも不便はない。バスから相乗りタクシーへの乗り換えも難なくクリア。小太りのセニョリータと大量の荷物の間に挟まれながら行き先を目指す。
空港を出てから三時間ほど経過した頃には風景から建物らしきものは消えて、平地が広がっていた。するとやがて、ポツンと立っている看板が見えてきた。
”めんそ~れ オキナワへ”
私の6年越しの願い、それはボリビアにあるオキナワを訪ねること。
オキナワという地名は通称名ではなく、地図に記載されている公の名前である。
正式名:Munisipio Okinawa Unoはcolonial Okinawa(オキナワ移住地)と呼ばれており、人によってはオキナワ村と呼ぶ人もいて、私はそれが気に入っている
。
オキナワ村の存在を知ったのは、自分が南米の地を踏むことなど想像もしていなかった大学生の頃だった。知り合いがSNSに投稿した村の写真を見て、異国と日本が合わさった姿に強く惹かれた。
それから6年。旅に出ようと決めた際、真っ先に頭に浮かんだ行き先がオキナワ村だった。
オキナワ村の金城商店
30分もかからずに往復できてしまう村の小さなメインストリートに佇むお店に入る。
所狭しに並べられた日用品。小学生の頃によく通った文房具屋さんを彷彿とさせる店内には、何やら香ばしい匂いが漂っていた。
匂いの正体は牛のハツ(心臓)をタレに漬け込んで串焼きにした南米の定番料理のアンティクーチョだったのだが、ここはオキナワ村。アンティークーチョが沖縄県民のソウルフードである天ぷらになっていたから驚いた。しかも抜群に美味い。
(アンティクーチョの天ぷら1本2.5Bs(約40円))
店番をしていたおばあは日本人の顔をしていた。「こんにちは」と話しかけると話は弾み、次の日に村の診療所で行われる体操クラブに誘ってくれた。
地元の人と交流するチャンスにもちろん二つ返事をさせてもらった。
(手に持っているのは干し桃のジュース、モコチンチ)
体操クラブでの出会い
翌朝、少しばかり緊張しながら診療所に行く。なぜか金城商店のおばあの姿はなかったのだけど、事情を話すと快く輪の中に入れてくれた。
ここが日本から1万9千キロ離れたボリビアであることを忘れるくらい、体操クラブは日本のそれと全く変わりがなく、地元のおじい、おばあと一緒に体操やボール遊びを楽しんだ。
クラブ終了後、体操の先生が”ゆんたく”に誘ってくれた。
コーヒーをいただきながらオキナワ村の歴史に興味があって訪れたことを伝えると、先生の義理のお父さんが1954年に琉球政府が制定した「南米ボリビア農業移民募集」に応募しオキナワ村に来た第一次移民であることを教えてくれた。
「詳しい話は本人に聞くといいよ~」と、早速電話をしてくれて、急遽お宅訪問させていただくことが決まった。しかもそのお父さんというのは、先ほどの体操クラブで私とボール遊びのペアになってくれたおじいであることがわかった。
(地元食材で作った先生お手製のお饅頭をいただく)
フィリピン、沖縄、そしてボリビア。
体操クラブで出会ったおじいの名前は「比嘉敬光」さん。1938年生まれ。
高い天井が印象的な、広々とした居間に案内してもらい、話を聞くことができた。
生まれは沖縄ではなく、フィリピンのダバオ。当時アカバ麻の産業が盛んであったため、父親が沖縄から出稼ぎに来ていたのだった。
敬光さんが7歳になる1945年、フィリピンで終戦を迎えた。
その後アメリカ軍に連れられて帰国。収容された熊本の小学校の校舎に窓ガラスはなく、亜熱帯育ちの敬光さん兄弟にとって、阿蘇の麓の熊本の冬はとても寒かった。
もともと5人兄弟だったが、寒さで体力を奪われ、風疹を患ったお姉さん2人をそこで亡くした。
敬光さん一家が沖縄に戻ることができたのは終戦から10ヶ月が過ぎたころ。
その後の少年期を過ごした沖縄はでの生活は、食糧難でひもじい思いもたくさんしたが、何より学校に通えたことが嬉しかったと振り返る。
(趣味はカラオケと三線)
敬光さんが16歳になった年、沖縄県人に南米移住の募集の話があがった。
もともと、沖縄県出身者がボリビアに渡ったのは1900年代前半。ゴム栽培のために南米への移住がはじまり、主にペルーで働いていたグループの一部がボリビアに移動し、定住が始まった。彼らは戦後、故郷沖縄の惨状を知り移民を呼び寄せる計画に尽力。琉球政府より「南米ボリビア農業移民募集」が制定された。
そして、4,000人を超える応募者の中から選ばれた第一次移民275人を乗せたチサダネ号が、1954年6月19日に那覇を出発した。敬光さんは、両親と兄、弟の家族5人で船に乗った。
(ご自宅で奥様の手料理をいただいた。お豆腐屋さんが週2日、村に売りにくるという)
「何も怖くはなかった。」
那覇を出発して2ヶ月。香港、シンガポール、南アフリカなどの港に寄港しながらの長い船旅を終えてブラジルに到着。そこから木炭機関車で1週間かけてボリビアを目指す。
ようやく入植地に着いた時、川が見えた。木炭で真っ黒になった体を洗い流そうと仲間と川に飛び込んだものの、水があまりにも汚くてがっかりしたことを教えてくれた。
そして遂に、手つかずの大自然を相手に開拓の日々が始まる。
大人が7,8人が手を伸ばしてようやく囲えるくらいの大きな幹を持つ、見たことのない大木をなぎ倒し、大地を耕した。
大干ばつに見舞われ、5km先の川には牛を連れて毎日水を汲みに行く。
疫病が流行し、仲間を失い再出発を余儀なくされた。
それでも懸命に開拓を続け、ようやく作物が育ち始めると、今度は槍を持った先住民に襲われた。
そのため、真夜中に見張りの役割が回って来た。
「16歳は立派な青年。嫌な仕事は全部任されたよ。」と、当時を笑顔で振り返る。
聞いたこともない話の数々に興奮気味な私と違い、敬光さんの口調は終始穏やかであったのが印象的だった。
(敬光さんの畑。現在は息子の徹さんが後を継いでいる。ここがかつて未開拓の原生林であっただなんて信じられない。)
敬光さんは現役を引退したものの、やはり暇さえあると畑を見に行く生活を送る。
それから週に一回村の小学校で三線を教え、子ども達からは敬光先生と呼ばれ親しまれている。
何もないところから大地を耕し、村を作り、畑を広げてボリビア経済に貢献し、遂には行政区として認められるまでとなったオキナワ村。
「木の下で眠る覚悟があった。開拓魂をもってここまできた。何も怖くはなかった。」
穏やかに、そして力強く答えてくれた敬光さんにとっての故郷は、自分のルーツのある沖縄でも、幼少期を過ごしたフィリピンでもになく、仲間とともに作り上げた、ここオキナワ村である教えてくれた。
敬光さんとの会話を思い出しながら、子ども達の奏でる三線に耳を傾けた。
旅を続ける中で多くの人に出会い、様々な冒険話を聞いてきたけれど、未だに敬光さんの大冒険に勝る話はない。
筆者:宮本諒子
1989年生まれ。
大学卒業後、機械メーカーに勤務。
27歳の時に退職し、世界放浪の旅に。
10ヶ月で32ヶ国を訪れる。
帰国後はコロンビアで出会った旅仲間の紹介で伊平屋島の製糖工場にて季節工を経験。
好きなものは写真とビール。