内間御殿について【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】
皆様こんにちは。いつもOKINAWA4Ⅰをご覧頂き、誠に有難うございます。
さて今回は、沖縄県西原町にある内間御殿についてお話しいたします。
内間御殿は、第二尚氏王統の始祖である金丸(後の尚円王)が内間地頭に任ぜられた時の旧住宅跡に、尚円王没後190年後に建てられた神殿です。
1438年、金丸24歳の時、妻や弟らと共に生まれ故郷である伊平屋伊是名を出て、国頭間切宜名真村に居を構えました。以降、内間の領主となり1469年まで住んでいました。
尚円王の死後190年経った後(1666年)に国相に就任した羽地朝秀による国王への進言によって、旧宅(東江御殿)に茅箕の建物が造営れました(創建年不明)。これが内間御殿の整備の始まりと考えられています。
金丸が内間地頭の当時、嘉手苅の真むた親部の妹を御手掛(側室)に迎えました。
その後、大殿内では青磁の枕を尚円王の御神体として祀り、御手掛への焼香が続けられました。羽地朝秀が摂政の時、大殿内の屋敷に切妻造の茅葺の神殿(2間X2間)が建てられ、御神体として青磁の枕が安置され、大殿内には別の屋敷があたえられました。その後破損したため、1689年大美御殿によって東江御殿は堅木を使った瓦葺きの神殿に改築された。このように近世代にいたり、金丸の旧宅が国家的聖地の神殿として整備されていきました。
1706年、東江御殿の北側に長さ3間、横2間半の茅葺きの神殿(西江の神殿)が西原間切の民によって普請されました。
1735年(尚敬23年)、本殿の東江御殿に賊が入り、宝枕が盗まれる事件が起こります。
尚敬王は自ら家臣を連れ捜索にあたり、ついにに田んぼの中から宝枕を見つけ出し、それを契機に東江御殿の屋敷の囲いも、竹垣から石垣積に改修され、本門(瓦葺の屋根を載せた門)と小門(正門のわきにある通用門)を設け、瓦屋根を葺き替えた。
1737年には西江御殿も瓦葺に改められ、屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされ、1738年尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また尚敬の撰文になる「先王旧宅碑記」の石碑が内庭に建てられた。
1824年、東江御殿に安置されていたご神体の青磁の枕が再び盗まれたので、1835年西江御殿に安置されていた青磁の小皿を改めて東江御殿の御神体として祀る事になりました。
沖縄戦で両御殿は焼失してしまいましたが、石垣遺構や先王旧住宅碑の台座等は残っており、戦後の1951年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東江御殿跡にトタン葺きの神屋が再建されました。1974年、大屋の当主によって、ブロック造りの現在の神屋(2間X2間半)に改修されました。
この様に国家的聖地が約300年にわたってその歴史的系譜があきらかになる事例は例を見ないもので、また沖縄における祭祀、信仰を知る上で極めて重要な遺跡であることから、内間御殿は2011年2月に国の史跡に指定されました。皆様もぜひ沖縄旅行の際には内間御殿に御参拝下さい。
【筆者】
尚 衞(しょう まもる)
尚本家第23代当主。
1950年生まれ。
玉川大学卒業後、アメリカアラバマ州、サンフォード大学(Samford University in Birmingham Alabama U.S.A)にてMBA取得。
一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会の代表理事を務める。
◆一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会
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