沖縄神社と首里城について【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】特別寄稿⑩ 尚本家23代当主 尚衞
沖縄神社と首里城について【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】特別寄稿⑩ 尚本家23代当主 尚衞
皆さん、こんにちは。
今回は沖縄神社の例祭についてお話ししたく思います。
10月20日は沖縄神社の例祭でした。今沖縄神社を護って下さってますのは、波上宮の宮司様であられます。
神社と申しますと大和世の象徴のように感じます。しかし、琉球王国時代の1300年代頃には波上宮をはじめとする「琉球八社」が創建と伝えられ、「琉球八社」は王府より手厚い加護を受けておりました。
1623年完成の『おもろさうし 第十巻』には、「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」と言う意味の“おもろ”があり、琉球古来の先祖崇拝を大切にしながら、琉球本来の大神様、新しい大和の権現様を融和し、信仰したのだと思います。
沖縄神社の御祭神には、第二尚氏の王様方も祀られております。
創建は大正時代ですが、資料となる尚本家の日記によりますと、当時の首里城は荒廃したまま残されておりました。屋根は剥がれ、柱は傾き、絢爛に飾られていた数十の獅子などは破壊されたり持ち去られたりし、広大な御殿の威容は昔を偲ぶ事が難しくなりつつありました。その様な中で、首里城を永遠に残そうという声があがり、当時の市の財政で維持をする事が困難だった為、内務省に掛け合い、当時の文化財保護が可能な建物として、神社という位置づけで保護をし残して行く事を決めました。
その為に沖縄神社を設立し、首里城正殿を神社の社殿に流用して保護に取り組みました。
その当時は尚本家は東京への移住命令から沖縄に戻る事はなかなか許可が降りなかった為、沖縄の居留守役のお一人であった尚琳男爵の弟で尚球氏が國學院大学を卒業しており歌人としても名前が高く、生真面目であられたので沖縄神社の神職として推薦の声が上がりました。
そして、年月をかけ首里城正殿を整備し、立派な建物が再建されるに至ったのです。
祭典の宮司は資格があられた尚球氏がなさり、祭員が足りなかった為に当時の尚本家と相談し、尚本家の家扶より祭員を出す事となりましたが、皆祭式が解らず困っておりました。
その様な中、沖縄神社設立の日記を残された波上宮の当時の禰宜より祭式を教わり鎮めの祭りに臨みました。
当時尚本家の当主は代わったばかりで幼少の為に参列は難しく、沖縄尚家一門の尚順氏、尚琳氏、伊江御殿、今帰仁御殿の者たちが参列し、尚本家家扶たちと尚球氏、波上宮の神職により祭典は無事に執り行れました。
当時の沖縄の祭典としては、非常に絢爛であったと記されております。特に参列の中で一際目をひいたのは琉球の上流階級の夫人方でした。
琉球の上流階級の女性は結婚した者は、一切公の場には顔を見せないのが習慣でありましたが、此の時は一門の全ての夫人までが揃いの白装束で参列をし、その美しさと、琉球式から大和式になっても先祖を偲ぶ姿は変わらないものであると感じさせる真心が素晴らしいと感じたそうです。
その日記を残された禰宜は波上宮にて勤めの任期を果たした後、伊勢神宮でお勤めし、その後、伊勢の二見興玉神社の宮司となられました。この二見興玉神社の宮司が、沖縄神社の設立に携わり当時の尚本家家扶の者に祭式を指導した事は、私が今伊勢と縁があるのに繋がっており感慨深い所でございます。
様々に想う方々もいらっしゃるかもしれませんが、どの様な形であれ、力を尽くして真心にて守っていく事は容易ではありません。
私の名を衞と両親が名付けました。名は心や体を表すと言われますが、両親より沖縄を、尚本家を護るようにという願いが込められていたのかなと感じます。
【筆者】
尚 衞(しょう まもる)
尚本家第23代当主。
1950年生まれ。
玉川大学卒業後、アメリカアラバマ州、サンフォード大学(Samford University in Birmingham Alabama U.S.A)にてMBA取得。
一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会代表理事として務める。
◆一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会
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